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特別な存在になるには?祖父からヴェルタース・オリジナルをもらえなかった場合の対処法

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一人の人間が社会において特別な存在となれるかどうかは、幼少期に祖父から「ヴェルタース・オリジナル」を与えられたかどうかによって決定します。あなたがもし、自身を取り巻く環境に不満を抱いていたり、周囲からの扱いの悪さを感じているのであれば、それは十中八九「ヴェルタース・オリジナル」を祖父から与えられていなかったことが原因でしょう。

とはいえ、幼少期の経験によって社会的な地位が決定づけられてしまうのは不条理なことです。「自分は幼い頃ヴェルタース・オリジナルを与えられていないのだから、真面目に生きても仕方ない」と考えてしまう人も多いでしょう。

この記事では、ヴェルタース・オリジナルを与えられることのなかった方々に向け、ノン・ヴェルタースとしていかに人生を充実させていくべきかを解説します。

ヴェルタース・オリジナルの法的性質

そもそも、ヴェルタース・オリジナルを与えられたかどうかで社会的扱いが左右されてしまうことについて、法的な問題はないのでしょうか。「法の下の平等」について定めた日本国憲法の第14条には、以下のような記載があります。

すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

これは裏を返せば、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」以外の要素に由来する差別であれば、法的にこれを是正することは難しい、ということを意味しています。すなわち、「ヴェルタース・オリジナルを与えられたかどうか」によって社会的扱いが異なることについては、法律は手出しすることができないのです。

ヴェルタース・オリジナルは「勲章」にあたるか

しかし一方で、14条の文章にはこのような規定もあります。

栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

すなわち、ヴェルタース・オリジナルが「栄誉、勲章その他の栄典」に該当するのであれば、それを与えられたことによる特権は憲法上認められないことになります。

しかし、祖父から与えられるヴェルタース・オリジナルは、単なる「じいさんから貰った飴玉」に過ぎないわけですから、「栄誉、勲章その他の栄典」にあたるとは考えにくいでしょう。

「ノン・ヴェルタース」として生きるためには

幼少期に祖父からヴェルタース・オリジナルを与えられなかった人々を、「ノン・ヴェルタース」と呼びます。かく言う筆者もノン・ヴェルタースなのですが、これまでの人生で自分が特別でないことに悩むこともしばしばでした。

そんな私に一時の救いをもたらしてくれたのが、コアラのマーチです。眉毛のあるコアラがパッケージに含まれているかどうか、というのは完全に偶然的な事象であり、出自や社会的地位にかかわらず、平等にラッキーを与えてくれます。たとえノン・ヴェルタースであっても、自身の幸運を期待することができる、ということは生きるうえでの大きな希望となり、眉毛コアラに出会えるかもしれないという期待は明日を生きる力をもたらしてくれるでしょう。

眉毛ではなく睫毛のあるコアラに出会った場合

とはいえ、コアラのマーチに対する疑問がないわけではありません。「ラッキーコアラ」として広く知られているのは「眉毛コアラ」ですが、コアラのマーチの絵柄は365種類あり、このうちには「眉毛」ではなく「睫毛」が描かれたコアラも複数存在しています。

この「睫毛コアラ」もラッキーコアラとして解釈する宗派も見られますが、実際にこれに出くわした場合、私たちは自身の身に降りかかった「睫毛コアラとの邂逅」をどう考えればいいのでしょう。本当に期待していたのは「眉毛コアラ」であるのに、「睫毛コアラもまぁラッキーらしいからいいか」と安易に考えてしまうのは、睫毛コアラをキープ扱いする所業にほかならないのではないでしょうか。

睫毛コアラの立場に立ってれば、上のような考えの残酷さは一目瞭然でしょう。告白した相手が、「本当はヴェルタース・オリジナルを幼少期に祖父から与えられていた特別な存在と付き合いたいけど、この人もノン・ヴェルタースとしてはそれなりにステータス高いし、とりあえず付き合っとくか」などと考えていたとしたら、やりきれないではありませんか。

実際に、睫毛コアラの後に眉毛コアラに遭遇することになれば、多くの人は「あぁよかった、これで本当にラッキーだ」と思うことになるでしょう。睫毛コアラが提供してくれた束の間の安堵が、あたかも本物ではなかったかのように、人は自身のラッキーの根拠を眉毛コアラの方に求めるにちがいないのです。

ノン・ヴェルタースとして生きることは、睫毛コアラとして生きること

ここでノン・ヴェルタースたる私たちは、睫毛コアラの生き方から学ばなくてはならないのでしょう。どこまで行っても、眉毛コアラの特権性には敵わない。けれども、睫毛コアラにも束の間の幸福感を人々に提供することはできるのです。

睫毛コアラの提供する幸福感が、たとえ受け取る側の都合のいい合理化の結果であったとして、それは必ずしも「偽物の幸福感」であったことを意味しません。私たちが出来事を都合よく解釈し、ときに自分を誤魔化してまで合理化を行うのは、自分自身のありようを肯定するための営みであり、それは人生を積極的に意義づけるうえで欠かすことのできない心の働きです。

幸福は、その人が人生で積み重ねてきた無数の合理化のうえに成り立つものです。欲求が満たされないときの「自分自身へのごまかし」なしに、人格が形成されることはありません。むしろ、積み重ねてきた「ごまかし」の形、すなわちその人の「ひねくれ方」こそが、その人の固有性を形づくるのではないでしょうか。

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