世界中から愛されて止まないOREO(オレオ)。二枚のクッキーでクリームの層を挟むというシンプルな構造ゆえに、さまざまな楽しみ方を提供してくれるオレオですが、「クッキーの層をまず一つ食べて、それからクリームの載ったもう一方のクッキー層を食べることにより、高いクリーム比率からもたらされる豊かさの感覚を楽しむ」のが正式な食べ方だとされています。
とはいえ当然、楽しみ方は人それぞれです。そのままかぶりついたり、二つのクッキーを分割した時にどちらのクッキーにより多くのクリームがついているかによって将来を占ったり、指先に伝わるクッキーの凹凸の感触を味わいながらも食欲に抗うことができずに一口で食べてしまって指先に残った記憶を惜しんだりと、「次の一枚をどうやって楽しもう」と考えること自体が、オレオの本質的な魅力なのかもしれません。
それだけに、オレオの「最後の一枚」というのは非常に重要な意味を持つものです。野球で言えば、ウイニングショットをどの球種にするか、あるいはバスケットで言えば、試合終了間際のシュートを誰に託すか……そんな緊張感に満ちた選択を行おうという場面。そんな張り詰めた心を、虚しさで空っぽにしてしまうのが、「オレオ最後の一枚の喪失~The last oreo lost~」という事態です。
それまでの充足した時間がまるで夢だったかのように、私たちを虚無へと突き落とすLOL(The last oreo lost)。「こんなことなら、オレオとなんて出会わなければよかった」と悔いる人も少なくないでしょう。
この記事では、LOL(The last oreo lost)という事態にどのようにして向き合えばいいのか、またそれを防ぐ方法があるのかについて、古代ギリシアの抒情詩人のように語っていきたいと思います。
古代ギリシアの抒情詩は、現代には復元しえない
あらかじめ断っておかなくてはならないのは、古代ギリシアの抒情詩が竪琴のメロディに乗せた言葉だったということであり、それゆえどうしても文字のうえでは表現することができない、ということです。
筆者が音楽の才能に恵まれた人間であるのなら、「オレオ最後の一枚の喪失~The last oreo lost~」というタイトルのもと、本源的情動に訴えかけるメロディを作り、そこに言葉を乗せていく、ということも可能だったかもしれませんが、そもそも音楽の才能に恵まれていたらそんなことはしないでしょう。
とはいえ、才能があればそれで飯を食っていけるとは言い切れないのが、世の中の難しいところです。才能があっても発見されなければ存在していないに等しく、そういえばかのバークリーは存在するとは知覚されることであるということを言っており、やはり頭のいい人は的確なことを言うものだなぁと感嘆するばかりですね。
オレオへの期待が苦しみを生む?
喪失が悲しみにつながるとき、そこにはいつも前提として「期待」が存在しています。そこで、「オレオの喪失に苦しむのなら、いっそオレオに期待するのをやめてしまおう」と考えてしまう悲劇的思考の持ち主も少なくないでしょう。
このような思考は、ニヒリズムの始まりです。「オレオに期待する心」を圧殺することで、私たちは心のうちに住む無邪気な精神を抑圧することになります。それは次第に私たちの意欲を奪い、好奇心を腐らせ、ただただ現状肯定に終始する機械のような精神を作り出すことでしょう。
しかしある日、再びオレオに出会ってしまったとき、あなたはきっと目を覚ますはずです。「どうして自分は、オレオに期待する心を押し殺してきたんだろう……自分が傷つくことを恐れるばかり……」と、メロドラマのように涙を流し、ヒロイックな自分に浸ることができるのも、オレオの魅力なのかもしれません。
類似商品で心の隙間を埋める
オレオにはさまざまな類似商品が存在しますので、オレオに対する絡み合った心情を一旦隅に置いておくために、いかにもチープな類似商品でお茶を濁すのも一つの手段です。
オレオのように繊細な味わいを楽しむことはできずとも、大体の成分は同じですし、オレオの楽しみ方を予習・復習する際にも有効だと言えるでしょう。オレオほど期待していないので、最後の一枚が消えてしまっても割と簡単に気持ちを切り替えられるはずです。
しかし、オレオという「本物」に触れられない自らの不遇について、ふと虚しさを覚えることがあるかもしれません。「稼ぎがよければ、オレオの偽物なんて食べなくて済むのに……」
もちろん、お金を山ほどもっていれば、無限にオレオを用意して飽きるまで楽しむことができるでしょう。オレオ風呂やオレオタワー、オレオ・ザ・フリスビー(oreo-the-frisbee)など、庶民では到底考えつかないようなオレオライフを満喫できるかもしれません。
しかしそれは本当に、オレオを楽しんでいることになるのでしょうか? オレオの楽しみは、「あぁ、あと三枚しか残ってない」という有限性のなかで、「残されたものをどう楽しむか」というところにあるのではないでしょうか。
終わりがあることで、人生にはハリが出るのです。無限に続く人生など、出演者全員が小林幸子の紅白みたいなものです。それではただの小林幸子のライブに過ぎません。しかし小林幸子が複数いるという点では、ただのライブとは言えず、異常なライブなのであり、そこに何らかの国家機密的なものが絡んでいることが推察されます。いずれにせよ、オレオは人生と違いお菓子ですので、別に好きに楽しめばいいでしょう。