忙しい毎日を過ごすなかで、バナナやアボカド、トマトなどの「熟れ時」を見極めるのは難しいものです。同じ値段で買ったのに、熟れ時を見誤って本来の味わいを楽しめなければ、何だか損をしたような気持ちになってしまいますよね。
たとえば「バナナをいつも固いまま食べてしまう人」と、「いつも熟したバナナを食べている人」とでは、外面的には同じような生活を送っているようでも、内実としては全く異なる体験をしていることになります。「果物や野菜の熟れ時を見極められるかどうか」は、生活の質を大きく左右する要因だといえるでしょう。
この記事では、いついかなる時にも野菜や果物の熟れ時を見極められる「熟れ時マスター」になるための方法を解説していきます。
熟れていない野菜・果物を食べる悲しさから「熟れの真理」を学ぶ
「熟れ時マスター」になるための第一歩は、熟れていない食材を食べてしまった時の悲しさや虚しさをしっかりと受け止めることから始まります。「熟れ」の酸いも甘いもかみ分けてこそ、「熟れ」に精通した人間になれるというわけです。
包丁を入れたアボカドが固かったときの絶望感や、バナナが甘くなかったときの虚無感に、まずはしっかりと向き合いましょう。そのうえで、「熟れ」をめぐる真理に到達することが大切です。
時間を巻き戻すことはできない
たとえばアボカドに刃物を入れた瞬間、固い感触が手に伝われば、直感的に「しまった」という思いに囚われることと思います。次の瞬間には、「なぜこのタイミングで食べようとしてしまったんだ」という後悔が浮かび、「できることなら時間を戻したい」という思いに駆られることでしょう。
しかしもちろん、起こってしまったことをなかったことにはできません。「自分はアボカドの熟れ時を見極めることができなかった」という事実を深く受け止め、至らなさを反省するとともに、「このような悲劇を二度と繰り返してはいけない」という強い覚悟を抱くことが必要です。
時間を進めることもできない
切ったトマトを口に運び、その固さや酸味の強さに打ちひしがれる時、どうしても私たちは「どうにかこれを熟した状態にできないか」と考えてしまいます。しかし切断された細胞は元に戻りませんから、本来ありえた熟し方を再現することは不可能です。
WEB上には熟していない野菜や果物を追熟する方法について、さまざまな情報が掲載されています。電子レンジを使ったり、加熱して別の料理に使ったりといった選択肢が提示されていますが、いずれも代替措置であり、野菜や果物に備わる「熟す性質」そのものを引き出すことはできません。
言うなれば私たちは、熟していない野菜や果物を使うことで、それらが熟す未来を奪ってしまったのです。固さや酸味を噛みしめながら、自身が奪ってしまったものの大きさに向き合わなくてはなりません。
まとめ:熟れ時マスターとは「心の在り方」
いかがでしたでしょうか? ここまで読んできた方には、「熟れ時マスターとは何か」はもはや明らかでしょう。それは技術云々の問題ではなく、姿勢や態度に関わる問題なのです。
端的に言えば、「熟れ時マスター」とは、野菜や果物の「熟す未来」について真摯に向き合える人のことです。自らの選択したタイミング次第で、その食べ物の「可能性」を奪ってしまうかもしれない……このことに対する責任感が、熟れ時マスターになるための前提であり、同時にもっとも重要な資質でもあるでしょう。
100円でバナナを買うにあたっても、「このバナナは近いうち、私によって食べられてしまう……私はこのバナナをおいしく食べられるだろうか? 私はこのバナナを食べるのにふさわしい人間か?」などと思いをめぐらせ、最終的には「このバナナはフェアトレード商品なのだろうか?」といったところにまで思考を及ばせられるようになれば、もはやあなたには「熟れ時」を見極める必要すらなくなっているはずです。井上雄彦さんの『バガボンド』においては、「無刀」が剣の局地として描かれますが、「熟れ時」にも同じことが言えるのかもしれませんね!