JR水道橋駅を降り、神田川を渡る。やたらと広い歩道に、三角形の模様が敷き詰められていて、ケア美はそのどれかが三角形のイデアなのではないかと思わず訝しむ。
「安心しろ、怪物はいつだってお前の内面にいる」
かつてマラドーナに似ていた小さい天使のおっさんは、いつのまにかジョージ・クルーニーのような顔になって、遠くの方を見つめている。タコ・ベルがもう近いことをケア美は直感した。
と、肩にとんとん、と指が置かれる。振り返ると、とくに誰に似ているわけでもない老人が、小刻みに震えながらケア美の耳元に顔を寄せてくる。
「もし、お嬢さん、オバンドーを見に来たんじゃが……」
オバンドーという名前に、ケア美はすぐさま思い至った。英才教育の一環として、ケア美はセ・パ両リーグの歴代首位打者やホームラン王、打点王を記憶していた。さらに、近年重要視されている指標ということで、OPS1位の選手も覚えるようにしていたのだ。オバンドーは、2000年にパリーグのOPS1位となった日ハムの外野手・DHだった。
「おじいちゃん、もうここは日ハムの本拠地じゃないの。オバンドーも祖国に帰ったわ」
「孫がファンなんじゃよ」
老人は未だ、日ハムの東京ドーム時代を生きていた。片岡、田中幸雄、ウィルソン……小笠原だって頭角を現しはじめていた。ビッグバン打線の幻影を、彼は今も追いかけているのだ。
「そうなのね。残念だけど、今日は試合がないの」
ケア美にその幻影を打ち砕くことはできなかった。「そうかい……」と肩を落として帰って行く老人の丸まった背中を、ケア美はもどかしく眺めていた。思わず、下唇を噛みしめ、“v”の発音を出してしまうところだった。
全部、ドームがいけないのではないか。いつも同じ環境で試合を開催できるドームは、一見理想的な球場であるように思えるけれども、寒暖差をめぐるさまざまな情感とは無縁なのだ。ドーム内には時間が流れていないかのようで、季節も天候も存在しない。老人の記憶が、オバンドーと一緒にそこに滞留していたとしても、何らおかしくないことのように思えるのだった。
“variety of life…”
不意に口をついた“v”の音から導かれるように、そんなフレーズが発された。寒暖差は、記憶に打ち込まれるべき楔であり、多様な生き方の地盤にあるはずのものだ。
「タコスよりブリトーがいいな」
ジョージ・クルーニー似の小さな天使のおっさんの声で、ケア美は自分がいつのまにかタコ・ベルの前にいることに気づく。そのとき、ケア美の脳裏に規則正しい歓声が蘇る――We want tacos! We want tacos!
どこで聞いた歓声だっただろう。群衆がタコスを求める場面などそうはありそうにないが、その地響きのような声の記憶は、確かに腹のあたりに刻まれている。ともあれ、ケア美はタコスを食べなければならないような気分になっていた。
そのときである。
「ここね」
ケア美の背後で、時間がスンと鼻先で落っこちるような、ハイヒールの小気味いい音が響いた。リクルートスーツに身を包んだ女子大生・優子が、そこで足を止めたのだった。
「もしかして、あなたは――ドーム関係者としての就職を希望しているのね?」
優子のただならぬ気配に、ケア美は確信を込めて聞いた。
「違うわ。べつに、就活をしているわけじゃないの」
「それなら、どうして」
ケア美の問いに、優子は待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべた。