エバーグリーン園長は、羽毛ひとつ舞い立たせないほど軽やかに、それでいて堂々たる様子でステージに着地した。宙に浮いていたわけでもないのに美しい着地をしてみせた園長の姿に、ケア美は恐れおののいていた。
「ヒムを放したまえ」
麒麟にむかって真っ直ぐに手を差し伸べながら園長は言った。動物に対しても人称代名詞を使い、目的格を用いた彼の品格にリスペクトを表し、ケア美はヒムを放した。
「恐かっただろう、ヒム」
悪い予感が的中した。なぜその可能性を考えていなかったのか。そう思ってケア美は唇を噛んだ。忸怩たる思いに喉の奥が震える。と、“v”の音がきれいに発音できた。
「victory」
とてもいい発音だった。声に出しただけで勝ったような気分がした。
「いい発音だ」
エバーグリーン園長はヒムを撫でながらそう言った。そうして、かつての恋人の名を懐かしむように「Volkswagen」とつぶやいた。ケア美の脳裏に、あの、排ガス不正が取り沙汰される以前の陽気なCM――「ゴキゲン、ワーゲン」のフレーズが浮かんだ。いま、フォルクスワーゲンは立ち直り、目下電動化に舵を切っている。ゴキゲンに排ガスをまき散らしていたあの頃の姿はもうなかった。
「電気自動車に力を入れればいいと思ってるのね」
苦虫をかみつぶすような顔で、ケア美はそう吐き出した。
「電気自動車に力を入れるということは、車を電気で動かしていくということだ」
環境を意識する者に特有の言い回しで、園長は顎を少しばかり上げ、存在しない髭を撫でながら「話はこれで終わりかな?」と続けた。
「この幼稚園は歪んでいるわ」
確信をこめてケア美は言った。盲目なEV化の流れに警鐘を鳴らす自工会会長と同様の、強い使命感がそこにあった。
「ここはたとえるなら、イデア界だ。ヒムも、私も、ここでは観念として存在できる。もちろん、君たち園児もそうだ。普遍的な観念として、私たちは高められていく」
ここはたとえるなら、イデア界なのだ。ヒムも、園長も観念として存在するし、園児たちもそう。しかし、ケア美は観念としての自分を受け入れたくなかった。
「私は三角形とは違うわ、三角形の定規ではあるかもしれないけれど」
「定規としての生は、虚しい。観念ではないものは、すべて消費に供される」
「それでも――」
ケア美は逡巡した。と、その瞬間、ケア美の目の前にスマホの画面が提示される。松屋の牛めしが30円引きになるクーポンだった。
「消費されるものは、クーポンの対象になりうる。すべてだ。すべてが割引されるわけではないが、すべてが割り引かれる可能性がある」
冷たく言い放たれたその言葉に、ケア美は何一つ言い返すことができなかった。
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